人文学

残された建物は近代化の遅れを表すのか? 尾道〜鞆の浦から。

過去の写真を見ていて少し懐かしくなったので写真のレタッチと同時に記事を書いてみようかなと思い。

行くきっかけ

旅行という経験はそこまで好きなものではなかった。ただ、漠然とした理由で、住んでいた場所から逃げ出したくて私自身理由もわからないまま歩き続けていた節がある。

車の免許を持っていなかった私の移動手段は電車かバスか徒歩で、目的地に着いてからはよっぽどのことがない限り歩いて行動していた。歩いていることで土地と関わることができると思っていたからなのかもしれない。冷気のある建物は私の地元と変わらない。歩いて行くときに足にかかる反動だって同じものだ。遠い世界のものではない。

残る遺産群

尾道には多くの寺社仏閣が残る。空襲で焼かれなかったから、とお友達から聞いた。皮肉なものだ。 残されている遺産群を免れたから、という名目から紹介する、というのは。

君たちは好きだ。

鞆の浦

鞆の浦とは広島県福 山市鞆町・鞆町後地にある場所である。鞆の浦の歴史は古く、万葉集にその名が記されている。 鞆の浦は港町として発展し、今でも多くの港湾遺産が残っている。これらの現代でいう、港の遺 産は商人たちがお金を出し合って作っていた。多くの港の遺跡が示すように、かつて鞆の浦は繁栄 していた。しかし、明治時代になって、時代の転換、すなわち動力船および鉄道輸送の転換に失敗 し、現在、少子高齢化などの問題に悩まされている。言い換えると、鞆の浦の美しい風景は、歴 史を残している。しかし、繁栄の後、転換に失敗し、世間から取り残されたことをも意味している のだ。  

1950年に、鞆の浦では都市計画道路についての問 題が出された。この問題とは、道路を鞆の浦に作ろうとしたのだが、街並みに影響を与えるため に、実施できなくなったという話である。この都市計画道路に関して、住民の間では、賛成派と 反対派が出てきて、対立することになった。 賛成派はどういった人だったのかというと、どちらかというと、歴史を守りたい私たちが考え るであろう高齢者たちであって、反対派が若者を中心とした人々だった。賛成派は主に地元の リーダー的な存在の人たちであった。 賛成派の主張としては町の発展を望んだものが多かった。理由を具体的にあげると、鞆の浦の 道路の幅が狭いということ、緊急車両等が通りにくいということ、住民および観光客のニーズに 応えようとする意見が多く、生活に直結している意見がほとんどであった。そして、第一に、自分 の住んでいる地域の創生を望んでいたのである。 一方反対派の意見としてはあげられたものは、確かに、渋滞などの問題はあるが、深刻ではな いということ。道路のために景観を犠牲にすることで、地区としての価値が下がってしまうのでは ないかということであった。つまり今のままで対応するという景観・歴史を守ろうとする意見が 多かった。反対派の人たちは今のままで十分価値があるのだと考えた。 この対立は住民のみならず、地域外からも反対の声が多く出てくることになる。そして、結果的 に、この工事は中止になった。

残されてしまった風景

この町は発展していかない。古い建物を残したくて残したのではないのだという文章を読んだ 時にびっくりした。この歴史ある鞆の浦という古い町を住民の誰もが誰もが誇っていると思って いたからだ。

かつて尾道および鞆の浦へ旅行した時にこんなに昔ながらの場所があるのか、と思いながら観 光していたことを今でも覚えている。しかし言い換えれば、


歴史がむしろ取り 残されたという象徴に見えてしまう、という言葉にも驚いた。私が考えていることと逆のことを 考える人ももちろんいるのだ。美しい風景、残っている歴史、という面から見える情報のみで結 論づけることはできない。内部に内包された出来事や思いが確かにあるのだ。

例え ば私の出来事をあげると、旅行をして、色々な人の話を聞くことでどんな場所もただの観光地で はなく、観光地以上の場所であることを認識することができた事実がある

参考文献

・森久 聡『〈鞆の浦〉の歴史保存とまちづくり』、新曜社, 2016

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Ayu Awasatoと申します。人文学好きなディレッタント。