京都の市街地から少し外れたところに亀山という地名がある、そこに宝泉寺 禅センターという禅修行の受け入れをしているお寺があります。そこへ、就職前に行ってきました。(2021/03~)
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宝泉寺 禅センターについて
体験する期間については、1日、3日、一週間など比較的自由に日にちを決めることができます。だけれども、最初は3日が一番最初には適任です、予定が綺麗に3日間で纏まるようになっているので・・・!
設備も基本大丈夫、おそらく生活に困ることはありません。(詳しくは公式HPをみよう・・・!)
今回は三日間過ごしてみての心情の変化をば。
気づいたこと
他者のため・・・「自分を捨てる」。自分の認識が問題を作り出している。
周りへの羨ましさと、虚栄心と依存心。主に虚栄心と依存心が自分の中にあると気づきました。そして、私は虚栄心で大きく可能性を潰してきたんだなということに気づきました。
現実との交渉が怖かったのです。現実で実際行動を行うと、言葉を発すると相手/他者がいるので反応が返ってきます。その結果を直視できなかったのです、PDCAサイクルを回すことを怖がっていました。
例えば、〇〇したい!と言いながら、実際やりたいことの具体的な筋道を考えませんでした。ただ、頑張っている状態に満足して、自分のプライドを守っていたのだなと気付かされました。
虚栄心
大体の後悔の記事もやらなくてとか結構多い。病気にはかかるし。
虚栄心、わかるだろう、自信がない、自分を大きく見せてしまうということ
虚栄心があったから、自分の意見が言えなかった。馬鹿と思われたくなくて。まあコンプレックスとかこんなのは自分のせいじゃないとか色々あったとは思うんだけど。
苦しい時は成長できる時です。今と正しく向き合えないのは何故なのか規則だからやる、役割だから仕方なく行うという気持ちでは修行にならない。我を消すために他者貢献をする。1番は羨ましいとかもっともっとではなく、自分の人生だって言って生きることが出来ること徳を積むこと、が主でした。
本をたくさん読んで他に負けないぐらいになったから今は和らいでるけど、他の要因もありそうだ。ただ、学習は自分が馬鹿だといかに知ることである。自分の病気とかメンタルがやられてたことも虚栄心が慰められるからなんだろうな・・・なんて最低なんだ・・・つら。どれだけ誠実に生きてこれなかったのか。
だからだろう、言語化スキルも低いのだまず英語の文法とか一個一個終わった時にこの虚栄心という呪いは解けると思う
私は虚栄心のせいで本当に努力できる機会を逃し続けてはいないのだろうか。修行の時も、自分の利益にならないこと(=掃除)を丁寧にやることができなかった。他人のために頑張れないならまず自分の真善美のために.
今の私、で生きていかないと勉強をすることで勉強(=他者)を感じられるのではないかと。こんなことを再生産してはいけない
許せ、とよく言われはするが これで必要な行事以外もう関わらないことが私なりのけじめの付け方になるのだと思う他者は多くのものを奪われてきた対象である親から離れることでこの傾向を小さくできたら良いのだが。
だからか誠実に生きたかった。恵まれているのはわかっているけど憎さが消えないこの想いと向き合っていくのだ生きることは辛いことだろう。たまたまではあったが京都に出てこれて本当に良かったと思う。私にはこの感情が残ってしまった
https://note.com/abfly/n/n04a315114fcd
苦しさや、曖昧さに耐えられないのではないだろうか
依存心
あえて、目標最短ルートの計画を立てないとかやった常に部屋をきれいに保つ
課題を自分の字からでちゃんと解いてパソコン判定してもらった時、嬉しさを感じた。じぶんの力でもできるじゃん、現実突きつけられても今はそこまで怖くない、と。
ただ、直視してる苦しさは感じる、みんな今までこんなものを見てきたのか。以下の記事を思い出した。
私は他者として勉強や物自体、現象自体を愛そう
今まで、論理問わず親や他者に否定されることばかりだったから安心できるものがなかったんだなとおもう、その意味で学問やいろんな環境を見てきたことは私の背中を押してくれる存在になったのだと。
ただ、幸福の閾値が低いから、いろんなものが幸せに感じる。ただこれは向上心を妨げるもの、夢を忘れないように
行動を愛そう。そして他者にもちゃんと大切にしてあげたい今は少しまだ虚栄心が出てしまうけれど。